2 月21
続・夢のあきらめ時を考える。
2007年02月01日06:23 の自分の日記を読み返した。
タイトルは『夢のあきらめ時を考える。』
相変わらず、光井勇人は、今も、昔も、青臭い。
あれから三年経ったんだなと思った。本当にあっという間だった。
でも、あの頃から、決して、ブレてない。逸れてない。
いま、僕は、夢のどまんなかにいる。
『夢のあきらめ時を考える。』
両手じゃかかえきれない
俺には夢がある
どきどきするような
「夢がないと言われてカッとなった。」
最近起こった短大生の妹殺害・切断した事件の容疑者である予備校生の兄の動機が事実かは、分からない。
だが、こんな供述が出ること自体が「夢」に対する強迫概念を感じさせられる。
2/6発売の週間SPAで、【夢のあきらめ時を考える】という特集が組まれていた。
その特集では「夢を見続けることで得るもの・失うものとは?」「私のあきらめ時とその後の人生」「人生をこじらせない夢の見方とあきらめ方」という三章構成になっていて、全体の趣旨としては、年齢や才能の問題で「叶わない夢」があるのは当り前。自力ではコントロールできない、それが人生なのだ。私たちはこの事実を冷静に認めるべきではないか?という冒頭の書き出しとともに、人生をこじらせない上手な設定方法と断念のタイミングをプロが指南するといった、いかにもSPAらしい語り口で綴られていた。
僕らの日常には、夢という言葉が巷では蔓延している。
「夢手帳」が大ヒットした、ワタミの渡邉美樹社長は「夢に日付を!」と雄弁に語り、ケミストリーが優しく僕らに歌ってくれる。
「どうか君の夢をあきらめないで。途方もない夢だとしても」
夢を実現した起業家たちを、マスコミは勝ち組ともてはやす。
しかし、2007年現在、一年間に168,000社が開業されるのに対し、廃業は年間290,000社と言われてる。
冒頭にも戻るが、現代は、良くも悪くも夢を押し付ける傾向が社会全体に蔓延し、「夢」に対する強迫概念を感じている人は少なくないように思える。確かにそうかもしれない。
夢は、時として残酷なまでに現実を我々に突きつける。
過酷なまでの、夢を見続けることのリスクを知らないうちに背負っている。
いつまでしがみつくのか。
それは、本当に才能があるからなのか。
それとも、自分自身に対する過信なのか。
はたまた、「惨めな自分」に対する言い訳で、現実を直視してないだけなのか。
その答えは、きっと誰にも分からない。
でも答えは、きっと未来に転がってる。
小学校の卒業文集に書いた夢。中学校の卒業文集に書いた夢。
高校卒業の時に誓った夢。大学に入ってやっと見えてきた夢。
その重みはきっと全部違うと思う。でもそれでいいんだと思う。
あれもしたい
これもしたい
もっとしたい もっともっとしたい
あれもほしい
これもほしい
もっとほしい もっともっとほしい
資本金1円で起業できる。
ブログで小説を書けば肩書きは小説家と名乗れる。
秋葉原でメイドの格好をすればアイドルにもなれる。
確かに、昔より、はるかに可能性は開かれた。
昔ならあきらめがついてた夢も、中途半端な形ではすぐに実現できる。逆に、だからこそ、夢をあきらめきれなくなっている。
誰かが言った。
「夢は叶わないから、夢なんだよ」
うるせえ。黙ってろ。
夢のあきらめ時を考える。
そもそも夢って一体なんだ?
人によって意味もニュアンスも違うけど、自分の中では一つの目標なんだ。叶えたい、自分がこうありたいと思う目標だ。
でも夢と目標は、何が違うかっていうと、実現可能性が低いもの、遠い未来、やや漠然とした目標に対して、我々は目標という言葉ではなく、むやみやたらと夢という言葉を使ってしまう傾向が強い気がする。
たとえば、「夢は?」と聞いて
「警察官になりたい」と返ってきたとしよう。
でも、「警察官になりたい」は目標であって、目的に対する手段でしかない。
大事なのは警察官になって自分は何がしたいのか。どうしたいのか。なんのためになるのか。なんのためにそれをするのか。
やっぱり、いちばん大事なのは、目的なんだ。
目標は目的を達成する上での手段にすぎないのだから。
だって、もしかしたらその目標を達成するためには、警察官になる以外の最適な手段があるもかもしれないのだから。
目的さえしっかりとあれば、たとえ、目標達成度の振れ幅はプラス・マイナスあっても、その手段がたとえ変わろうとも、まっすぐ目的に向かって歩いている限り、きっと僕らは幸せになれるはずだから。
今、僕らに必要なのは夢じゃない。
夢のあきらめ時を考えることでも決してない。
きっと、目的なんだと思う。
アーユーハッピー?




